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・パン粉産業の歴史 ・パン粉の定義 パン粉とは.その名のごとくパンを粒状に粉砕して篩に掛けて、粒状を選別して作 られた物をいう。 原料として小麦粉、イースト、塩、糖質、油脂、イーストフード、色素等が使われる。 用途としては.トンカツ、コロッケ、エヒフライ等フライの衣として、また、ハンバーグ、 メンチボールその他加工食品の材料として使用されている。 主な製法として焙焼式(主に関東)と電極式(主に関西)がある。 生産量は年間15万7,518t(平成5年)でそのうち家庭用が25%、業務用が75%であり、 業務用の内半分以上が冷凍食品、に使用されている。 特にここ数年の傾向として生パン粉(乾燥していないもの)の使用が4割近く(平成5年 6万4,026t)に増えてきた。 生指向と同時に多様化も著しく.メーカーによっては常時l00種類のパン粉を生産して いる。 少し変わったパン粉として @ カラーバン粉:バブリカ、アナトー、βカロチン等で色を付けたもの。 A ミックスバン粉:カラーバン粉と白パン粉を混ぜたもの。 B 水分調製パン粉:水分が生パン粉と乾燥バン粉の間のもの。 C クラッカーパン粉:ビスケッ1・を砕いたようなもの。 D エクストルーダ一で作ったもの。 等がある。 ・パン粉の誕生 1867(慶応3)年徳川幕府が崩壊し王政が復古し、1868(慶応4)年3月年号が改元し、 世は明治となり新時代を迎えた。 維新政府は過ぐる1853(嘉永6)年アメリカ東洋艦隊司令官ペリー来航以来、欧米諸 国の文化文明の進歩発達が驚くべきものであることを体験し、政治.経済.産業をはじめ 欧米文化文物の摂取に意を注ぎ諸般に渉り欧米風化推進に努力したため、欧風化が 急速に進み、政治の中心地、東京は欧米人の往来も多くなってきた。 東京の中心地、銀座の町並みが.欧風式建物に改築されるところが多くなったのも この時代である。 1869(明治2)年には早くも欧風郵便業務が開設され,1872(明治5)年には,新橋.横浜 間に鉄道が開通し汽車が走り出した。また銀座の街にガス灯が青く光り出し、銀座通り に鉄道馬車が走り、人力車も威勢よく走り出した。歩道は赤煉瓦で舗装され、文明の 嵐は東京の街や人を変わらせた。欧風化が進むにつれて、生活様式は変わり、食生活 も欧米のごとく日本食一辺倒でなくなり、洋風式料理がはじまってきた。 そこで,大レストランやホテル等は、外人コックを雇い入れ、街の西洋料理や食堂の経 営者、料理人は外国船のコック等に洋風式料理を教わったと言われる。 とに角、文明の波に乗って西洋料理店を開業する者が増加してきたが、欧米人の好 む肉料理は、大部分牛肉の焼肉(ビフテキ)が主で、主食がパンであった。 ビフテキや野菜のサラダを食べながら食パンが食され、食事の量は、日本食の食事と 異なり主食のパンより副食物が多く摂取された。一般には、ビフテキの他のパン粉を 衣にまぶしてラードで揚げたコロッケ、カツレツ、魚フライ等種々あるが、問題のパン粉 は外国製で、ほとんどがビスケットや乾パンを粉末にしたような品物であった。 日本人によって当時作られたパン粉は、必要によってコック、調理人がパン屋に行き、 食パンを購入して帰り、自ら食パンをほぐし普通の場合、丸い金網の篩のなかで粉砕 して篩い、粒子を揃えて使用されていた。 この方法は、明治初期より1907(明治40)年にパン粉専業がはじまるまで、食パンを 自らほぐして使用されていた。 1970年、現在は故人であるが丸山寅吉氏(東京パン粉(株)社長がパン粉製造用食 パンの製法および食バンの粉砕機を工夫し、東京は京橋八丁堀にパン粉製造工場を 建築し、機械を設備しパン粉の製造を開始した。 この創業が日本においてそもそも初めてであった。さてパン粉がてきても売らねば 商売にならない。工場に積んで置いても誰も買いにくる人がない。 従って100匁(375g)入り、あるいは1貫匁(3.75kg)入り等の紙袋に入れ、銀座、京橋、 その他足で歩いて回れる地域を毎日売り歩いたと云われる。 1909(明治42)年上野不忍池畔で東京勧業博覧会が開催されたのを機会に、パン粉 を使用した揚げ物、カツレツ、コロッケ、魚フフイを宣伝した。これを契機にパン粉が全国 に広まったといわれる。 ・パン粉の沿革 大正時代に入り、世の中が進歩し文化は発展し、交通機関や運搬きかんが改善さ れ便刊な世の中となった。 パン粉の消費層も拡大され、東京を中心としてパン粉を 製造する業者も次弟に多くなり、関西、四国、東北、九州と全国に及んでいった。 この時代は、大正デモクラシーといわれる個人主義的、自由主義思想が定着し労働 争議が頻発する他、無産政党が誕生、また社会主義運動が活発となった時代であるが 1914(大正3)年ヨーロッバにおいて、オーストリア皇太子夫妻の暗殺という事件が発端 となって、第一次世界大戦が勃発し1918(大正7年)年11月まで続いた。 日本もイギリス の要請によって参戦したが、この戦争のため日本経済は活気に満ち好景気となった。 パン粉の需要はこの時に急速に伸び業者数も全国的に増加し、パン粉業者が大小 通じてぞくぞく出現していった。 時代は昭和初期に至ったが、この時代は経済恐慌、不況の時代であり多くの産業は 倒産していった。 パン粉は、この不況時代も売れぬ売れぬといいながら結構売れたのである。しかし 時代は軍国主義へと発展していき、1938(昭和13)年国家総動員法、電力国家管理 法が成立、1939(昭和14)年9月18日物価停止命令が公布され、1940(昭和15)年7月 アメリカが日本に対し、ガソリン、石油の輸出を禁止し、1941(昭和16)年12月8日太平 洋戦争が始まり、国家総動員法の下で同年物資統制令が発布され、物資はすべて 統制下に置かれ、配給制度となった。 1945(昭和20年8月15日)日本は無条件降伏し終戦を迎えたが、1951(昭和26)年 麦類の統制解除までは、パン粉の製造業者は減少の一途をたどっていった。 同年麦が間接統制になり小麦粉が自由に売買できるに至り、パン粉が次第に多く市 場に出回るようになった。現在企業としてパン粉を生産している業者が全国で大小 含めて100社前後、その総生産量も15万tに及んだ基礎を作ったのは1956(昭和31) 年からとみてよいであろう。 |